バングバング

「gは発音しない」って知らないとこう発音するよね。

 

■物事を知らないことって非常にめんどくさいな、と最近思う。私はちっちゃい頃「バングバングバカンス!」って歌ってた。

 きっかけはこないだ音楽の話をしてるとき。会話の中でボーカル用マイクのSHURESM58を「ゴッパー」と言われた。一瞬分からなくて戸惑ってしまった。調べてみたらそういう愛称で呼ばれてるらしい。知らなかった。いや、「ゴッパー」って呼び方ダサくない? 制作したSHURE社員はきっともうちょいかっこ良く呼んでほしいと思うよ。

 個人的に「ドクターペッパー」を「ドクペ」って言う奴は殴りたくなる。略さなくていい長さじゃん。「ウォーキングデッド」を「ウォキデ」とか言いたくないでしょ。あと最近公式が「田中君はいつもけだるげ」を「たなけだ」って略してて「おい公式!」ってなった。「たなかげ」の方がいいよ、多分。

 大御所が「ゴッパー」って呼んでたのかな。例えばキムタクが「今日のマイクゴッパー?」とか言ってのかな。とか考えてたら東京事変の亀田さんがtwitterで「ゴッパーは頼れる相棒!」みたいなツイートをしてて前言撤回をしたくなった。

 話が逸れたが、とりあえず私が「SM58」を「ゴッパー」って知らなかったのが多分悪い。結構この呼び方有名らしい。物事を知らないと、自分の中に面倒な感情がどんどんと湧いてきてめんどくさくなる。相手への感情、自分への感情、ごっちゃになってよく分からなくなるから知識はつけといた方がいいんだろうな、と最近思った。

 

■年の瀬。今年一年を振り返ってみると、自分の知識、実力、経験の無さを思い知った一年だった。これからそういったものは身につけていけばいいのだろうけれど、スタートラインが誰かと違うことや自分と相手の学習能率の違いとか、当たり前のことでどんどん気持ちが落ち込んでくる。頑張って結果を出してる人を見ると「この人は強いな」と思う。ただ、来年は何が出来るかなと思うと楽しみではある。それに、誰かが頑張ってるのを見たり結果を出してる人を見て、ただ見てるだけの自分は嫌いだ。自分のことは嫌いになりたくない。頑張りたい。とりあえず初日の出に起きれたら太陽と打ち合わせしてこようと思う。

父が病院で手術した。

多分こうすれば大多数の人クリックするでしょう。タイトルに騙されるなよ。

 

■病室に入ると、元気が無さそうに青白い顔をして寝ている父がいた。「誰だこの体調悪そうなオッサン」というのが第一印象だった。父親が発する声を聞くと「ああ、親父だ」と思った。めっちゃ「患者」みたいな風貌だったけど。

 曰く、「体重が増えた為、生活習慣病を予防しようと食生活を見直し、運動する習慣を身につけようとした。そしてバトミントンを職場の同僚とやっていた所アキレス腱を断裂した。」らしい。個人的には結構お茶目な理由で定年間際の父親が怪我して入院したという状況がめっちゃ面白かった。手術したら早く治るらしいから手術したらしい。ただまぁ父親がベッドで寝たきりの生活をしていたりするとこちらの精神状況は不安になるし、ご飯に連れて行ってもらえなくなったりすると私の食生活は乱れる一方だし、何より経済的に自立出来ていない私は父親が働いてくれないと困る。(いや、父親に何かあった場合私は働いたり、女性のヒモになったり、生きていく為の対処法をとるつもりではいるよ。ただ、父親の怪我もそこまで酷いものではないらしいから、領収書にお世話になったり、女性モノのシャンプーの匂いを自分が漂わせてることに違和感を覚えたりするのはまだ先の話になりそう。)

 お見舞いの品を用意するのを忘れたので、「何が欲しい? 売店行ってくる」と聞くと、「朝まで何も食べれない」とのこと。幸いにも私とは違い父には脂肪がたんまりとあるので、痩せるいいチャンスだとは思うけれど、同時に父は食べることで幸せを感じる人なので、元気が無い父を見るのは少し寂しかったりもした。なので鞄の中に入っていた本を父に置いていくことにしたら「やったー! 暇を潰せる!」とめっちゃ喜んでいた。昔「入院してる時の一番の敵は暇」という話を思い出した。(余談だけれど、私がが父親の病室に置いてきた本が「大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ(辛酸なめ子著)」とかいう定年間際の父には遅すぎる本だったのが個人的にウケた。もし仮に私が入院することになったらこち亀とかブリーチとか読んでみたい。あんまりちゃんと読んでないし。完結したし。)

 馬鹿みたいに下らない話から、お互いの近況をしたりして、30分程で帰ってきた。もう少しゆっくり話したかったし、馬鹿みたいな話もしたかったけれど、相部屋の他の患者の方がそういった馬鹿な話をする度に「ばこん!」とテーブル下の引き出しを開けしめするのでやめた。怖かった。親父あの後恐喝とかされてないかな。

 病院から出た時に、少し不安になったりもした。やけに父に元気がなかった気がした。年を重ねていくとタイムリミットが迫っているということを実感したりするのだろうか。私がまだ本当に若い為に、父のそういった部分を分かることが出来ないのが少し寂しく感じた。老いというものは、どんなものなんだろうか。死を感じるというのは、どんな気分なんだろうか。

 

 原因がめっちゃお茶目だったからギャグとして受け止めようと出来るとはいえ、父親が病室にいるのを見るのはあまり気分のいいものではない。早く治ってほしい。

愚か者に幸あれ

好きな漫画の好きな台詞。

 

■「幸せを掴むにはどうしたらいいのか」というのは私にとって「男女間の友情は成立するか」以上に永遠の謎である。幸せってなんだろうな。恋、愛ってなんだろうな。下心、真心ってなんだろうな。難しいな。人の感情は難しいし、面倒くさいし、自分に関わってくるものだと途端に愛しくなってしまったりもするから、本当に扱いにくい。

 あなたにとって幸せとはどういうことなのでしょうか。私にとっては「自分のことを嫌いにならない」というのが、更に言えば「自分のことを好きになる」というのが幸せになるのだな、と昔考えたことがあります。しかし、生活を営んでいく中で実際に行動する際にあるたくさんのジレンマやパラドックスがそうはさせてくれないのです。簡単な例を挙げれば「好きな子にちょっかい出す」とか。ちょっかい出して好感度が下がった後、後悔をしてしまったりすること。あなたにもきっと、それに似たようなことはきっとあるでしょう。お互い強く生きたいものですね。

 小学生がするいたずらのような優しいもので済めばいいのだけれど、きっとそうもいかないことこそ人が生きるということなのでしょうね。生活するにはどうして切ないことや苦しいことがこんなにも多いのでしょうか。人が生きるとは元来切ないものなのでしょうか。この切なさは感じてしまったが最後、もう意識せずに生活することが困難になってしまう気がするのです。もう、私達が幸せになることなど出来ないのかな、とまで考えてしまいます。盲目でいれたら、どんなに幸せだったのでしょうか。そうなれないからこそ、私達はより賢くなる為に頑張らなければいけないのですね。

 変に考える能力を授かってしまった人間は、元来愚かな者なのでしょうか。

 ただ、考えてしまうからこそ、考えて幸せになる道を選ぶしか無いのでしょう。

 

■さておき、それでも生活は続き、日常は回る。以前好きだった人に彼氏が出来ようと、好きなバンドが活動休止しようと、体温を垂れ流そうと、エフェクターの修理代金で8000円とられようと、ただ時間は刻々と過ぎる。結果21歳になってしまった。目標を達成出来ずに迎える誕生日なんて祝われたくもないけれど、祝ってくれる人はそこそこいた。本当に嬉しいことだ。関わった人に迷惑をかけ、深く関わった人には心配をかけ、好き勝手に生きて、考えても上手くいかないことが多い普通の若造が21歳になれた。なんとなく、生きててよかったと思う。まぁこれからも不慮の事故で死ぬ予定は無し、死ぬことは相当怖い。ただ単純に、生きててよかった。産まれてきてよかった。幸せになりたい。

みんな一生懸命生きててすごい

 

■こうやって安易に「みんな」って言葉を使うとケチつけられるのかな。アメリカ人じゃないんだし別にいいじゃん。(俺はケチつけたくなるタイプだけど)

 どっかで聞いた(予防線の意)心理学的な知識を引用すると、人間は同じ事が二回以上起こった時点で「これ多いな」とか思う傾向があるらしい。あなたにもありませんか、「最近この服流行ってるよね」って友達に言ったりしちゃったこと。実際見たのはその人で二人目だったのに。そんな感じ。

 つまり、私も人として生きていて、同じように思ってしまったのでタイトルをつけた次第です。みんながみんな一生懸命生きてるなんて本当は思ってないよ。ただ自分のバイアスがかかっているのを承知で言えば、怒ったり悩んだりする人は一生懸命生きているって感じがするよ、生きていて大変そうに見えてしまうから。

 

■生活をしていく中で、何かに怒ったりする人、何かを悩んだりする人、なんでこんなに一生懸命になれるんだ、とよく思う。それは自身の幸せに繋がること、なのかな。怒りも悩みも「自分の感情を相手に伝える」という点で結構似ていると思う。

 自分の感情を相手にぶつけるってことは、非常に面倒なことだし、非常にリスクが高いことだとは皆さんご存知の通りだと思う。だって批判されるじゃん。それに評価されるじゃん。よくやるよ。

 

■自分の感情を出すことが評価されることに繋がるのであれば、自分が評価されてもいいポイントに絞って感情を出せたらきっと生きやすくなるかな。でも、人が営みを送る部分(コミュニケーションとかそういったこと)はきっと最低ラインなんだろうな。それが出来なかったらどういう扱いを受けていいのか、受けてしかるべきなのだろうか。

 話してて内容が通じない人はイライラする。でも同時に、相手からもイライラされる。立場が逆転しても同様。それだけの話なのに、やりきれないよな。

 

 相手の感情がぶつけられた時、無条件で謝りたくなるのは、きっとあなたもそうでしょう。だって相手が怒ってるんだもの。衝突を避けたいとかそんなこと考えずに、そこまで感情を出させたことにたいして謝りたくなってしまわないかい。あと俺はなんて言っていいかわからなくて謝ってしまう時が多々あり、同時にその自分に対して嫌気がさすときが結構あるのだけれど、どうですか。私たち良い友達になれそうですか。

 

 誰かから許しを得たり、生きていていい許可をもらってる訳じゃないのに、謝って許されなくちゃ、許可をもらわなくちゃ生きてる資格がないみたいに思う。なんでだろうな。

 君に言ってるんじゃないよ、あなたに言ってるんだ。

 

 そういえば、一生に命なんて、最初から懸かってた。こう考えると、誰もが一生懸命な気持ちがしてきた。(実際の成り立ちとかの補足はめんどいからしないよ。)

 

 あぁ、ごめんよ、今まで不快にさせた人。あぁ、これは言っちゃうよなやっぱり。いつか笑い話に出来たらいいな。一生に命懸かってんだったら、一笑に命懸けるくらい出来るかな。漢字変換みたいに簡単に出来たらいいな。お後がよろしいようで。

生活の仕方

難しいよね

 

■自分を含めた誰かを幸せにしたいと思った事で誰かを傷つけたり怒らせたりしてしまった時って切ないですよね。

 「自分のした行動がどういう結果を招くか」とかの考えが足りないこと、それには気づいたけれど解決策が面倒くさくなってやめてしまったこと。そして後々にそれによって傷ついたり傷つけたりしてしまうこと。面倒だし、阿呆だし、馬鹿だし、何よりそれ故に苦しい。善意は善意のまま広がってほしい。真に善意を突き詰めた行動なら誰かを傷つける事も怒らせる事もないのかな。それが出来る人になりたいな。なれるのかな。

 

 こんなにたくさんの人がいて、それぞれにバックグラウンドがあって、それを踏まえて生きなくてはいけない面倒な世の中なら自ら死を選ぶの者が出るのもそりゃそうだ、と思う。死ぬのは怖いから自らその道を選ぶ事は無いだろうけれど、それでも「死ねないから」の理由一つで生きていくには生きることは面倒なことが多い。楽しいというフィルターもいずれは面倒くささに蝕まれる気がする。面倒を乗り越えた先に何があるのか、なんて先の事はいつまで経っても考えるのが怖い。そもそも、そういったことが面倒だ、と思ってしまう節が多い私は生活を営むのが向いていないのではないだろうか、とも思う。どれだけ考えても、どれだけ突き詰めたとしても、どれだけ納得をしたのだとしても、プラスの感情につきまとうマイナスの感情の揺さぶりは自身の営みの中に非常に多い。その揺さぶりは忘れてしまったら他人の痛みにも鈍感になってしまいそうで、捨てられないのかもしれない。ただ、そうやって正しく見せようとしても、それでも、生活をするのは

 むずかしいよねーーーーー本当に

 

 

 ■まりえちゃんがそろそろ帰ってくる。あの時と比べてどれくらい自分の事が好きになれただろうか。結構好きになれた気はするけれど、ふとした瞬間に嫌いになってしまう危うさはいつまでも抱えていかなければならなそうだ。あなたもそんな時はたくさんあるのでしょうが、あなたが幸せだと感じることが誰かのマイナスの感情のきっかけとなりませんように。そう祈るばかり。ハレが活動を再開したら私はどんな曲を作るのかな。まず第一に自分のことを嫌いにならないような曲だったらいいな。あわよくば、誰かがそれを聞いて心を動かしてくれたらいいな。

 別に「生きる活動」なんて大した事は言わないけれど、ただ、あなたの感情を引き出せるくらいの人に、俺だってなりたい。どんな形であれど。以上。

「誰もお前の事見てない」

それ本当?

 

■私は以前人の目を結構気にしていた。今も少し気にしているのかもしれないけれど、以前に比べ自分のした行動に対する人の目を気にして「うわああっ」ってなることは少なくなった。それと同時に、その時は相手を見ていた。「この人の行動は私に対してこう思ってる裏返しなんじゃないのか」「私が嫌いだからこういう行動をしたのだ」などと勝手に考えを膨らませた。あなたにも多分、この気持ちは少しは分かる、と思う。

 転じて今は、「自分のことが嫌いにならないかどうか」で判断している部分が多い。そういった状況で当時の自分を振り返って思うのは、よく人の行動を見てたな、と思う事だ。今は見たり気づいたりすることはちょくちょくあれど、以前に比べて気にしてしまう頻度は少なくなった。

 

 ただ、状況にもよるのは重々承知の上で使われている「誰もお前の事見てない」という言葉の大半は少し乱暴な言い方だと思う。しかも発言側の「お前は自意識過剰だよ」「お前はそんなに自分のことが可愛いのか」という気持ちが滲み出てている気がする。それが本当に嫌だ。じゃあ素直にそう言った方がいいと思う。「『誰も』という言葉を使う事で罪悪感を少なくするなよ。

 あと、この「誰もお前の事見てない」という言葉は結構色々な所で耳にした言葉だと思う。こういった「名言」に似た「有名な言葉」はその言葉を言うのが目的になってしまって、その人の素直な気持ちが出難いから本当に聞いていて気分が悪い。私が素直に言おうと思ったら「誰もお前の事見てない」は「大抵の場合相手に嫌な思いをさせたとしても治るよ、あなたもそうやって生きてきたでしょう。」に変わった。

 

 「自分の視点を相手の視点に置き換える」ということは結構な頻度でしている事だと思う。例えば、「誰かに見られてる気がする」のは「自分が誰かを見ているから」では? 加えてそんな相手に「誰もお前の事見てない」なんて言葉をかけるのかい?

 この言葉で「ハッ」ってした人はいるのだろうか。もしいたのならその人は本当にその言葉の意味を受け取ったのだろうか。その言葉によって「自分が悪い」という罪悪感を他人に指摘されたことに安心した、ということはないのだろうか。

 

 そんなつまらないことをして、あなたは自分のことを嫌いにならないのかい?

 

 「誰もお前の事見てない」という人に、「でも、私はあなたの事を見ている」と返したい。

 

■人の事を動かすのは、相手を思った上での自分の素直な言葉、だと思う。それはきっと言葉が魔法をかけるのだ、と思う。きっと生きていれば「本当」が残る。もっと補足したいことはあるが、書くのがめんどくさい。必要な人に伝わってくれ。

 なるべく「本当」を見つけたい。私もあまり、自分のことは嫌いになりたくない。オチは無い。

本当さ!

 

 

君の目には見えないだろうけど!

 

■いやまぁ考えてみれば当たり前の話なんだけど、人のことって分かりませんよね。もう少し言い換えたら、「他人の考えてる事」ですかね。発した言葉の意図とか、その言葉の裏とか。それは話した方にさえ気づいていないかもしれないし。受取る方が気づいた、もしくは気づいた気になってしまっただけかもしれないし。本当に分からないけど、自分の幸せに繋がるものを選択していきたいものですね。

 

■ふと思い立ってツイッターの過去の呟きを全て消しました。昔の自分の文章とか画像とか、バレないように自己顕示している所(しかし文面からそれがバレバレ)を見てしまって笑っちゃったので消しちゃいました。昔の自分はそれなりに愛してやりたいけど、それにしてもレベルが低いよ。俺。昔の自分と今の自分を対比しようとした時には結構自分のことが可愛く見えてしまう。良い意味じゃなくて、悪い意味でもなくて、ただ単に、「あー、この時こんなこと考えてたんだなー。」とか。そういったものが別にそんなに嫌な訳ではないけれど、どうしても他人に見せられるモノではないと感じてしまう。みたいな理由で消した。誰だって黒歴史があるのは当然だけれども、黒歴史を広げる必要も無いでしょう。このブログだっていつか消すかもしれない。ただ、文章を書くということがちょっとでも未来の私の糧になっていることを祈るよ。

  過去を隠すことは結構幸せに近づくことだと、思う。あまりに未熟すぎる過去の自分を隠す事は、他人に対しても自分に対しても結構有益だ、と思う。ただ、その過去を隠すということが過去を捨てることに思えてしまうのは何故だろうな。幸せになりたいとは常々思っていたけれど、幸せに近づく事がこんなに切ない事だとは思わなかったな。

 

■人や物事と接すると自分のエゴイズムが見え隠れしてしまって、それが相手に伝わってしまいそうで怖い時や、どうしても嫌になってしまう時、やるせなさでいっぱいになってしまう時は、形は違えどきっとあなたにもあるのでしょう。伝わらなかったから壊れてしまうものはもちろんのこと、伝わってしまったからこそ、壊れてしまうものもきっとあるでしょう。それに加えて、それが後々愛しく思えたりするのだから、余計に苦しいよ。

  自分の過去と他人の今を比べたりしてしまって、相手の生きてきた背景を自分に当てはめてしまって、相手の理解をおざなりにしてしまうことがあるよ。他人の思ってる事が見えないからって、自分に全て置き換えてしまうことは、間違いだと分かりつつもしてしまって後悔することが多いよ。自分が体験した物事を他人の体験している物事にも適切に置き換えて人と接していきたいよ。人の痛みにまで鈍感にはなりたくないよ。それが自由の為に戦うってことかい、TAKUYA00さん。

 

 人付き合いに加えて、過去付き合いも、考えながら付き合っていくしかないのだな。いつかは拡声器持てるようになれるかな。大きな声で怒り散らせるようになるのかな。ゴーゴー。お後がよろしいようで。