「誰もお前の事見てない」

それ本当?

 

■私は以前人の目を結構気にしていた。今も少し気にしているのかもしれないけれど、以前に比べ自分のした行動に対する人の目を気にして「うわああっ」ってなることは少なくなった。それと同時に、その時は相手を見ていた。「この人の行動は私に対してこう思ってる裏返しなんじゃないのか」「私が嫌いだからこういう行動をしたのだ」などと勝手に考えを膨らませた。あなたにも多分、この気持ちは少しは分かる、と思う。

 転じて今は、「自分のことが嫌いにならないかどうか」で判断している部分が多い。そういった状況で当時の自分を振り返って思うのは、よく人の行動を見てたな、と思う事だ。今は見たり気づいたりすることはちょくちょくあれど、以前に比べて気にしてしまう頻度は少なくなった。

 

 ただ、状況にもよるのは重々承知の上で使われている「誰もお前の事見てない」という言葉の大半は少し乱暴な言い方だと思う。しかも発言側の「お前は自意識過剰だよ」「お前はそんなに自分のことが可愛いのか」という気持ちが滲み出てている気がする。それが本当に嫌だ。じゃあ素直にそう言った方がいいと思う。「『誰も』という言葉を使う事で罪悪感を少なくするなよ。

 あと、この「誰もお前の事見てない」という言葉は結構色々な所で耳にした言葉だと思う。こういった「名言」に似た「有名な言葉」はその言葉を言うのが目的になってしまって、その人の素直な気持ちが出難いから本当に聞いていて気分が悪い。私が素直に言おうと思ったら「誰もお前の事見てない」は「大抵の場合相手に嫌な思いをさせたとしても治るよ、あなたもそうやって生きてきたでしょう。」に変わった。

 

 「自分の視点を相手の視点に置き換える」ということは結構な頻度でしている事だと思う。例えば、「誰かに見られてる気がする」のは「自分が誰かを見ているから」では? 加えてそんな相手に「誰もお前の事見てない」なんて言葉をかけるのかい?

 この言葉で「ハッ」ってした人はいるのだろうか。もしいたのならその人は本当にその言葉の意味を受け取ったのだろうか。その言葉によって「自分が悪い」という罪悪感を他人に指摘されたことに安心した、ということはないのだろうか。

 

 そんなつまらないことをして、あなたは自分のことを嫌いにならないのかい?

 

 「誰もお前の事見てない」という人に、「でも、私はあなたの事を見ている」と返したい。

 

■人の事を動かすのは、相手を思った上での自分の素直な言葉、だと思う。それはきっと言葉が魔法をかけるのだ、と思う。きっと生きていれば「本当」が残る。もっと補足したいことはあるが、書くのがめんどくさい。必要な人に伝わってくれ。

 なるべく「本当」を見つけたい。私もあまり、自分のことは嫌いになりたくない。オチは無い。